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父ちゃんはこんな人
楽天日記もやっています。
大室自然農園
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広島県世羅郡世羅町大字上津田118番地
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1994年10月
整地前の様子です。

運良く、山林三千坪を買うことができました。緩やかな傾斜の檜の林です。

比婆郡の口和町から毎日1時間くらいかけて通い、慣れないチェンソーを使っての伐採仕事。枝を落とし、3メートルから7メートルくらいの長さに切り揃え、数箇所にまとめていきます。

当時は重機をまだ持っていなくて、ほとんどが一人での人力仕事。とりあえず30坪ほどの敷地を確保するのに約1ヶ月かかりました。

僕が32歳の誕生日を迎えた頃です。
リースのバックホーを使っての整地作業が一応終わったところ。当時僕はまだバックホーの操作をしたことが無かったので、知り合いがやってくれました。

さすが本職!とうならせるような丁寧な仕事振りだったのですが、面積が足りず、結局この後、2メートルも動けばキャタピラが外れる超おんぼろの小型のバックホーを借り、初心者運転よろしく自力でやり直すことになります。

写真は長男耕作と長女さくら。さくらはよちよち歩きの頃でしょう。今は2キロの道のりを毎日学校に通っています。
1995年2月4日
ここに来るまで、作業的にも精神的にもかなり紆余曲折あったのですが、適当な写真が見つかり次第追加していくことにします。

写真は柱をどんどん立てていっているところ。僕の建て方はいわゆる掘っ立て小屋−文字通り穴を掘ってそこに柱を立てていく−に独自の改良?を加えたものなので、いきなり柱が林立していくことになります。



この日は弟が手伝いに来てくれました。
1995年2月5日
建物の中心部分の2間×6間の骨組みができたところです。

地面はぬかるみ、田んぼ状態。所々白く見えるのは雪です。寒さと泥との戦いといったところです。

材木はバリバリに凍りつき、引き剥がすだけで一苦労、カンナも刃がとんでしまいなかなかきれいにかかりません。

二三歩歩けば長靴のそこに小型のバケツ1杯分ぐらいの泥がへばりつき金槌でも落とそうものなら柄の3分の1ぐらいまで埋まりこんでしまいます。

でもこの頃は、女房子どもや、父や弟がちょくちょく応援に来てくれて、作業的にも目に見えて進んでくるし、体力的には厳しくても、精神的にはとても楽な時期だったと思います。
1995年2月19日
棟上げです。

普通、棟上はそれまでこつこつと刻みを入れてそろえておいた部材を多人数で一気に組み立て建物の形が整う日なのですが、僕の工法では毎日少しづつ組み立ててきた建物のたまたま棟の部分の材料を上げる日が棟上の日ということになります。

その棟も今回は十分一人で担いで上がれる大きさと重さなので、というか一人で作れるように考えた工法ですので誠に淡々としたものでした。

それではあまりにも味気ないと思ったのでしょう。僕の親父がどこからか「棟上セット」なるものを買ってきてくれました。僕の頭のところにあるのがそれです。

それから桑原さんが、福原先生に頼んで、無名札を手作りで作って持ってきてくれました。どちらも大事に飾ってあります。結果的にとても贅沢な棟上になったと思っています。

下の写真をとりに裏山に上がって、この家の骨組みの全体像を見たとき、これで必ず完成させられるという確信を始めてもてたような気がします。
1995年3月19日
屋根に野地板をはり、アスファルトの防水紙で一応雨漏りを防ぎもらい物のサッシをはめていっているところです。

この頃になるとちょくちょく女房を呼んで、どこにどのサッシをいれようかなどと割と余裕を見せていたような気がします。
1995年4月9日
長男耕作と内装の板張りをしているところです。

この1週間前に強引に引っ越してしまっていました。外装7割内装4割ぐらいの仕上がりでした。弟や友人に引越しの荷物を運び込んでもらっている間に僕はトイレの据付をしているという状況でした。

ドアの取り付けは間に合わず、据付の済んだ便器に座ると仕切りのまだない家の中を通して、玄関の窓から100メートル先の林道を通ってこちらに来る人が見えてしまうというとんでもない開放感のあるトイレでした。水道も未設、電気は隣家の好意で井戸のポンプから分電させてもらってコードリールで引き込んでいました。容量の関係で電気炊飯器を使うともう後は何もつかえません。それに何より、外壁がまだ3割がたついていなくてとりあえずブルーシートで覆っていただけという状況です。

とても女房子どもを寝泊りさせるわけには行かないので、引越し終了後そのまま女房の実家に帰し、僕の単身赴任?となりました。4月とはいえまだまだ朝晩は寒く、布団のふちが吐く息でバリバリに凍っていたりもしました。

頑張って水道を引っ張れば水道が使える。ドアをつければ落ち着いてトイレが使える。壁をつければその分暖かくなる。そうやって頑張れば頑張るほど家族を早く呼び戻せる。まるで漫画のようにわかりやすい状況の中、朝6時から夜10時くらいまでほとんど休みもとらずぶっ続けで大工仕事をしていました。

食事は大きな鍋にカレーを作ってストーブの上に置いておいて、煮詰まったり食べて減ったりすると水を足しておくというやり方で、4日目ぐらいには具の無いカレースープのようになってしまったのを覚えています。

FMのラジオをつけっ放しで山の中で一人黙々仕事をしているわけで、気がついたら今日1日誰とも会わず、誰とも口を聞かなかったという日もあったりして、ハードといえばハードな1週間でしたが、幸福といえば幸福な1週間でした。
1995年4月中旬
家族と生活を再開した頃の様子です。

上の写真は居間。薪ストーブもまだ入ってませんし、テレビもありません。アンテナを立ててテレビをつけてみたのは数ヵ月後だったと思います。

思ったとおり山の中で受信状態は最悪。結局数年後に衛星のアンテナをつけるまでほとんどテレビは見ませんでした。

FMのつけっ放しでそれほど不自由は感じませんでした。というか、今よりもっとゆったり、豊かに時を過ごせていたような気がします。

そういえば当時はまだ風呂もつけていませんでした。炊事や洗濯等が不自由なくできるようにする事等、風呂よりも優先する課題もたくさんあったので手が回らなかったということもありますが、そのおかげで、週に2、3度は家族で近隣の温泉めぐり、これが結構楽しかったという理由もあります。

下の写真は屋根の下地材の補修をしているところ。アスファルトを染み込ませた紙ですので、強風には弱くめくれて敗れてしまいます。

屋根材にはアスファルトシングルを選んだのですが、解決しなければならない問題が一つあったのと、まあ当面の雨は防げるということで屋根を葺いたのはゴールデンウィークになりました。このときはうちの両親や、塾の教え子も応援してくれて、ほぼ1日で済ませることができました。
1995年4月
暮らし始めた頃の屋内の様子です。

この日は弟一家が泊まりに来ました。真ん中の赤ちゃんは姪です。建設現場でキャンプでもしているような様子ですが、生活しながら少しづつ部屋を完成させていく日々でした。
出来上がったばかりのテラスにブランコをぶら下げました。この場所は今は壁と床をつけて子ども部屋となっています。この頃はまだ僕の髪の毛もまっくろです。いつのまにかグレーになってしまいました。
1995年8月
我が家には今でも天井はありません。あまりにも屋根が焼けて暑いのでよくホースで屋根に水をかけていました。

最初は触れないくらいの熱湯、しばらくすると程よい温度のお湯が落ちてきます。そこで、おーい、耕作、さくら、石鹸もって出てこーい。シャワーじゃあ。となったわけです。

これが当時の玄関。掃きだしのサッシがドア代わり。敷石の代わりに枕木を敷き詰めています。

ちなみに今は屋根の上にスプリンクラーを設置、暑い日には屋根の上に噴水が出来たような感じになります。見た目にも涼しく、これが我が家のクーラーです。
ほぼ最初の形が整ったところです。

屋根右の妻側にある煙突は一点豪華薪ストーブのもの。左側奥にはテレビのアンテナも見えます。

受信状態は極めて悪く、民法は音声のみ、NHKだけかろうじて映像も見える程度で、僕が学生時代から使っていた13インチのチャンネルをガチャガチャいわせる旧式テレビを目を細めながら見ていました。それでも朝の連ドラと大河ドラマだけは欠かさず見ていました。

何年かして、21インチのテレビに買い換えたときあまりの画像の悪さに耐えられなくなり衛星のチューナーとアンテナを買って今はそれだけを見ています。前のおんぼろテレビは画面が小さかった分、画像の悪さが目立たなかったのでしょう。

この頃やっていた連ドラのタイトルが「走らんか!」耕作はjこれをちゃんと発音できなくて、(そういえば耕作は当時テレビをテベリといってました)朝になるとドタドタいわせながら「とうちゃーん、セーランカ(走らんか)始まったよー」と起しに来てくれるのが日課でした。
1996年2月19日
倉庫の建築の様子です。

使わなくなった鶏舎を解体してくれれば使えそうな部材はすべてあげるという話があって、当時、隣町の国営農場に入植して、電柱で家を建てていた古川さんという人に話したところ、重
機は自分が出すのでいっしょにやりましょうということになって1週間ほどかけて解体。

屋根の骨組み(トラス)をそのまま持ち帰り、電柱で作った骨組みの上に重機で載せているところです。

母屋とはうって代わってワイルドな工法となりました。
1997年4月
玄関の改修です。

もともとここには幅3メートルの掃きだしのサッシをつけて玄関にしていたのですが、あまりにも開放的すぎて、玄関先でだれかがお客さんと立ち話でもしようものなら家の中が丸見えで、他の家族はおちおち寝転がってもいられない状態でしたので、ついでに少し拡張してこんな形にしました。

これで約五畳の玄関となったわけですが、倍ぐらい広くてもよかったと反省しています。昔の農家の玄関は大抵広い土間になっていますが、ちょっとした作業をしたり、道具を置いたり、大変合理的で、便利な空間だったのだとつくづく思います。
家づくりの話もお送りしています。
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